軍艦やまと

戦艦大和宇宙戦艦ヤマト特別企画BBSMAILサイトマップLINK

激戦を極めた硫黄島

 1945(昭和20)年2月19日より開始された米軍の硫黄島上陸作戦。7万を超える米軍に対し、迎え撃つ日本軍守備隊はわずか2万。結果的には日本軍守備隊は玉砕したものの、米軍に3万を超える死傷者を数えさせ、太平洋戦争中の戦いで唯一米軍の損害が日本軍の損害を超えた戦いである。


1945年2月19日に撮影された硫黄島。左下の山が擂鉢山。

□硫黄島の戦い
 栗林忠道中将率いる日本守備隊2万2千は、絶対国防圏に決定された硫黄島を守るべく、迫りくる米軍を迎え撃つための入念な準備を行った。米軍上陸前に予想される空襲・艦砲射撃に耐えられるよう、主要な施設は全て地下に据えた。それらの施設は閉じ込められるのを防ぐ為に、複数の出入り口、階段、および相互に連絡通路を備えた。これらの建設作業は全て手作業で行われ、全ての坑道を合わせると全長18kmにも及ぶものであった。
 このように島全体が要塞と化した硫黄島は、米軍の艦砲射撃や空爆から兵士たちを見事守りきり、ほとんど被害を出さなかったという。
 また、硫黄島の日本守備隊は
バンザイ突撃から一転、最後の1兵になるまで持ち場を死守するという作戦を取り、米軍に損害を与え続けた。これに対して米軍は、坑道やトーチカに立てこもる日本守備隊に対し、火炎放射器や水攻め、手榴弾による生き埋めなどで対抗して、その1つ1つを潰していった。1945年3月26日に日本軍の最後の組織的な反攻が行われ、この時に栗林中将以下、数百人がアメリカ海兵隊に突撃し、玉砕。ここに硫黄島守備隊作戦司令部は事実上壊滅したのであった。

 米軍は当初、日本軍の実力を過小評価していたため、多大な被害を被った。そのため、直ちに大部隊の増援よこし、全力を持って硫黄島奪取を行った。

 硫黄島守備隊作戦司令部の崩壊後も、地下壕に生き残った日本兵は立てこもり、過酷な状況に身をおいた。地下壕内は火山性地帯の為に蒸し暑く、食料もないまま抵抗していた。だが決して自決は許されず、長い苦しみに兵士たちは耐えるしかなかった。

 無数に存在する生き埋めにされた地下壕は、回収不可能な遺骨が数千あるといわれており、現在でも回収・埋葬されていない。

 現在でもこの硫黄島守備隊の生存者が数名いるが、その真相を語るものは少ない。だが、我々は決してこの戦いを忘れてはならない。

日本
戦死者20,129名

アメリカ
戦死者6,821名、負傷者21,865名



米軍の上陸艇。苦戦すると見ると、一挙に増援部隊を増強した。


上陸したアメリカ兵。


膨大な屍の上に翻る星条旗。擂鉢山の頂上に掲げられた。


□戦後

 1960年代まで米空軍基地として用いられたが、1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還された。かつては1000名程度の島民がいたが、島民の帰島はいまだかなっていない。ただし無人島ではなく、現在は海上自衛隊管理の航空基地がある。もちろん観光をすることはできない。旧島民やその遺族、戦没者の遺族などの一般の人が硫黄島に上陸することができるのは、戦没者の慰霊祭の時のみである。


現在では、慰霊祭以外で訪れる一般人はいない。


今でもまざまざと戦闘の跡が残っている。


日本軍か米軍のものか分からないが、鉄兜もあった。


島中に掘られた坑道。今でもその大部分が残っている。


 


特別企画メニューへ戻る

当ホームページは個人の趣味範囲で作成・運営されており、製作会社等とは一切関係ありません。
画像、HTMLドキュメントファイル(表示させる全て)の無断転載、無断使用を禁じます。
軍艦やまと / (C) Ema☆Nati