|

一億玉砕と謳われたあの戦争は、日本全国各地に様々な爪跡を残した。日本軍の施設や民間人用の非難壕など、様々である。それらの爪跡は戦後61年が経った現在でも消えることはなく、観光スポットとなっているもの、放置されているもの、取り壊されてしまったもの、未発見のものと、様々な形で現存しているのだ。今回その中で注目したのは、民間人の避難用防空壕である。防空壕は戦後大規模な取り壊しが行われ、現存するものはほとんどなく、また残っていたとしても老朽化によって自然崩壊してしまっているものがほとんどだ。しかし今回、調査の結果当時のまま現存する防空壕を発見することができた。防空壕とはどういうものかを後世に伝えることができ、また痛々しい戦争の爪跡を見て平和の尊さを実感してくれたら、幸いである。

※危険ですので、絶対に防空壕内には入らないでください。 今回の調査では領主に許可をもらい、また完全装備で調査しています。
■防空壕内部見取り図■ ▲この図を使って説明していく。(途中にも同じ図を配置した)
@Iの矢印は出入り口を表す。またADの青い部分は水溜りである。 点線は推定部分。Eは自然崩壊による行き止まり。
□防空壕とは? 防空壕とは空襲から身を守る為の避難所で、日本全国各地に作られていた。防空壕には様々な種類があって、それぞれの地域や環境にあった作りになっている。今回調査したのは山を掘り下げるタイプのもので、岩盤が固く丈夫な山などには数個掘られることもあった。ほとんどの防空壕は人力によるもので、ツルハシ・モッコ・シャベルなどで固い岩盤を削るには相当な苦労があったであろう。 大戦中を通してどんどん作られていった防空壕だが、中に入れば絶対安全、ではなかった。大都市などを対象に行われたB-29の焼夷弾による絨毯爆撃では、防空壕内は灼熱と化し、中で焼け死ぬ人もいたという。しかし、当時は防空壕は絶対安全だと信じ込まれていた為、このような犠牲者が相次いだそうだ。ちなみに今回調査した防空壕の地域では、その様な大規模な爆撃は行われてない。 現在では防空壕はほとんど取り壊されている。これは過去に防空壕が崩れ、死者が出た事件があるからだ。防空壕があっても、安易な気持ちで中に入ってはいけない。
@出入り口1

この出入り口は土砂やゴミなどで埋まってしまい狭くなっているが、屈んでは入れるほどの大きさである。この防空壕があった地域は頻繁に米軍機が襲ってきたため、その当時はいくつもの防空壕があったという。
 内部から撮影した出入り口。
A分かれ道
 やや見えづらいが、奥のほうに左右に別れる道があるのが分かる。 下のほうに広がる黒い部分は水溜り。
B広場
 白くもやもやしているのは霧。奥になるにつれて濃くなった。

C通路
 長く、高さもかなり高い通路。
 途中、上から崩れている部分があった。
 誰かが入ったのだろうか、地面に古い足跡があった。
D分かれ道と水溜り
 右側の道はEに続く道。写っていないが、左に(Fに続く)曲がる道もある。
E行き止まり
 土砂で行き止まりになっているが、恐らくこの先もまだ続いていたと思われる。

F最深部・通路
 少し切れているが、左(H)へ続く道と右(G)へ続く道が見える。
G最深部・広場1
 やや狭い広場。一斗缶などがあった。
H最深部・広場2
 最深部にある広間。最深部になると霧が濃くなり、不気味な感じがした。 コウモリが写っているのがわかるだろうか?
I出入り口2
 土砂で埋まってしまって、中まで確認ができなかった。
防空壕は爆撃などで片方の出入り口が潰されても、もう片方で脱出できるようにするため、普通2個以上の出入り口が設けられているはずなのだが、見取り図でも分かるようにこの防空壕には出入り口が1つしか現存していなかった。このIの出入り口は@の出入り口から30〜40mほど離れた場所にあり、行き止まりとなっていたEと繋がっていたのでは、と推測できる。

特別企画メニューへ戻る
|