

中央に写る炎は、世界中から核兵器がなくなったときに消える炎。 この炎が消える日は来るのか?今日だけでも、考えてみてはどうだろうか。
□敗戦の象徴から、平和のシンボルへ 日本人なら誰もが知っていると思われる、原爆ドーム。1996年に世界遺産に登録され、「負の世界遺産」として世界中に知られている。ただ、モノがモノなだけに、登録はすんなりとはいかなかった。登録を審議する際、アメリカは原爆ドームの登録に強く反対し、「世界で始めて使用された核兵器」との文言を削除させた。アメリカは、核兵器を“あの時”使ったことに対しては、それが自分たちの正義であると思っているからである。以前、原子爆弾を広島に投下したB-29「エノラ・ゲイ」号の元搭乗員の話をTVで聴いたことがある。それは、戦後になり、被爆者とその搭乗員が、この場所、広島の原爆ドームの前で語りあう、という企画であった。被爆者は涙を浮かべ、被爆した体験を語っていた。その元搭乗員も、深く頷き、話を聴いていた。そして最後、被爆者の方が「原爆を落としたことについて、謝罪してほしい。あれは、間違いであったと。」と語った。だが、そこでその元搭乗員は、「決してそのようなことはしない。間違いではなかった。原爆を落としたことで、戦争による犠牲は、最小限にすんだのだ。むしろ、謝罪するのはそちらだ。我々にはこのような言葉がある。“リメンバー・パールハーバー”」と言い切った。結局、どちらも譲らないままその番組は終了したのだが、私はやりきれない気持ちになってしまった。どちらが正義で、どちらが悪なのか。歴史は、勝ったほうが正義となる。しかし、本当に正しいことなどあるのか?言い切れるのか?私は様々な思いが交錯するばかりであった。 また、原爆ドームを世界遺産に登録するかという審議の際、中国は「日本は戦争への反省が足りていない」と審議を棄権している。
もともと原爆ドームは、日清戦争以降に軍都として急速に発展した広島の経済のために、「広島県物産陳列館」として 建設された。その後時代の流れとともに建物の使用方法は何度か変わり、第二次大戦の末期には行政などの事務所として使われた。 1945年8月6日午前8時15分17秒、爆心地から約200mの位置。原爆ドームはほぼ真上から被爆した。そのため外見は何とか留めることができたのだが、中にいた職員たちは即死したとされている。
広島は戦後本当の「焼け野原」となってしまい、その中で高くそびえる「原爆ドーム」はよく目立っていた。復興が進むにつれ、「原爆投下時の惨劇を思い起こさせるので、取り壊してほしい」という市民の声が強くなり、また経済的な理由もあり、一時は取り壊すことが濃厚となっていた。しかし、1960年に被爆が原因で亡くなった1人の女子高校生が、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」という言葉に心を打たれた人たちが保存運動を起こし、1966年に広島市は永久保存を決定したのだった。1995年に国の史跡に登録されるまで、広島市単体による管理・保存が行われてきたが、これは広島が「あの日」を忘れずに、核の惨劇を世界に示す、という強い決意の表れでもあるだろう。
世界中に存在する世界遺産のなかで、数少ない「負の世界遺産」であり、また唯一被爆している遺産である。明らかに他の遺産と異なった雰囲気を、ぜひその体で、心で、体感してほしい。
安らかに眠って下さい
過ちは繰り返しませんから
 目の前の木箱は、ライトアップ用の電灯。
 見た目通りかなり老朽化しているので、何度も補強工事がされてある。
 ドーム内は補強の鉄筋が張り巡らされている。
 世界遺産になったためか、外国人観光客が多い。 自分たちの母国が落とした核の惨劇を、どう受け止めているのか?

 原爆ドームの周りには、瓦礫が四散している。
 爆心地にある慰霊碑。上には千羽鶴が。
 爆心地上空
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