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戦艦大和
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戦艦大和
戦艦大和
第二次世界大戦中に活躍した、世界最大、最強の、日本海軍の大戦艦。

戦艦大和-Battle Ship YAMATO-
 日本を守るべくして生まれたこの艦は、古来『日本』の俗称であった『大和』と命名された。世界のどの戦艦よりも勝る砲力、防御力を有する戦艦であった。「大和は美しいフネだった。青春を犠牲にして悔いのないフネだった」といわれる通り、その外見も実に美しい艦であった。まさに、日本の、開戦当初無敵とされた、日本海軍の象徴の艦であった。この艦は憎き米英を完膚無きほど打ち砕いてくれるだろうと、当時の誰もが想像したであろう。
 しかし、時代は大和を見放した。大和竣工の直前、大艦巨砲の時代は終わりを告げた。――真珠湾攻撃である。日本は自ら、航空機の優位性を示したのである。
 大和は完成当初は期待されていたものの、戦いの主力はいずれも航空機であり、その持ち前の砲力も存分に発揮されることはなかった。大した活躍の場を得られず、司令部の大和を失う恐れからくる大和に対する否好戦的作戦行動や、戦局の悪化に伴い、じりじりと後退を続け、ついには内地へと錨を降ろしたのだった。そんな大和に、作戦が与えられた。《菊水作戦》海上特攻作戦である。本土決戦用に温存されている燃料もわずかであり、もはや大和らが沖縄を往復することもおぼつかない。今行動を起こさなければ、出撃する機会を無くし、本土決戦を向かえ、身動きの出来ない大和は米軍機の袋叩きに合うのは目に見えていた。
 ――日本海軍の象徴とも呼ぶべき艦を、このまま無様な死に方はさせたくない。
 そして大和は栄光ある日本海軍の最期を全うするという任務を見事に果たし、3000名余りの勇士達とともに、九州坊ノ岬沖の海底に眠っている。

 日本海軍の栄光の象徴でもあり、またその崩壊の象徴ともなった、大戦艦である。

 

艦歴-History of YAMATO-
 戦艦大和は1941年12月16日に竣工し、沈没の1945年4月7日までの約3年4ヶ月の間、祖国を守るべく懸命に戦った。開戦と同時に竣工した大和は、開戦初期は瀬戸内海の柱島基地にて猛訓練を重ね、連合艦隊司令長官の山本五十六大将を迎えたりして、1942年6月5日のミッドウェー海戦に参加、1944年10月23日のレイテ沖海戦に参加するなど、数々の海戦に参加した。また、航空機中心の戦闘に対応すべく、レーダー(電探)の設置や対空火器の増強などの改装も何度か行われた。
 この艦は破竹の進撃が続く日本軍の絶頂期に生まれ、その勢いが挫かれるミッドウェー海戦のまさにその時に戦線に加わった。本艦のこの運命は、この後苦戦を強いられる日本の運命を予言したかのような、なにか運命的なものを感じてしまうのは私だけであろうか。


■戦艦大和行動年表

年号

日付

内容

1940年

11月4日

大和起工・呉海軍工廠にて

1941年

8月8日

進水

-

11月1日

初代艦長高柳儀八大佐着任

-

12月7日

徳山湾沖で公試

-

12月16日

戦艦大和竣工。連合艦隊第一戦隊編入

1942年

2月12日

連合艦隊旗艦になる。連合艦隊司令長官山本五十六着任

-

3月23日

出動訓練及び対空実験射撃

-

3月30日

出動訓練

-

5月29日

ミッドウェイ海戦参加のため柱島泊地出港

-

6月5日

ミッドウェイ海戦参加

-

6月14日

柱島泊地へ帰投

-

8月17日

ソロモン方面作戦支援のため柱島泊地出港

-

8月28日

トラック島到着

-

12月17日

2代目艦長松田千秋大佐着任

1943年

4月18日

主砲射撃訓練

-

5月8日

トラック島出港

-

5月13日

柱島泊地到着

-

5月21日

呉海軍工廠入渠

-

7月12日

呉海軍工廠入渠

-

8月16日

呉出港⇒トラック島へ

-

8月23日

トラック島到着

-

 9月7日

3代目艦長大野竹二大佐着任

-

10月17日

トラック島出港⇒ブラウン環礁へ

-

10月19日

ブラウン環礁に到着

-

10月23日

ブラウン環礁出港⇒トラック島へ

-

10月26日

トラック島到着

-

12月12日

トラック島出発⇒横須賀へ

-

12月17日

横須賀到着

-

12月20日

横須賀出港⇒トラック島へ

-

12月25日

トラック島北方にて米軍潜水艦スケートの雷撃を受け、
右舷3番砲塔付近に魚雷1本が命中する

1944年

1月10日

トラック島出港⇒呉へ

-

1月16日

呉に到着

-

1月25日

4代目艦長森下信衛大佐着任

-

1月28日

損害調査のため呉海軍工廠に入渠

-

2月25日

修理及び改装のため呉海軍工廠に入渠

-

4月10日

機銃増設等の改装工事完了

-

4月21日

呉出港⇒マニラへ

-

4月26日

マニラ到着

-

4月28日

マニラ出発⇒リンガ泊地へ

-

5月1日

リンガ泊地に到着

-

5月11日

リンガ泊地出港⇒タウイタウイへ

-

5月14日

タウイタウイに到着

-

6月2日

主砲編弾射撃訓練

-

6月10日

ビアク島砲撃参加のためタウイタウイ出撃

-

6月12日

バチャン到着

-

6月13日

バチャン出港⇒マリアナ沖海戦のため北上

-

6月19日

マリアナ沖海戦参加

-

6月20日

米機動部隊艦載機と交戦

-

6月22日

沖縄中城湾到着

-

6月23日

沖縄中城湾出発⇒柱島経由で呉へ

-

6月28日

呉到着

-

7月8日

呉を出港⇒中城経由でリンガ泊地へ

-

7月16日

リンガ泊地に到着

-

10月18日

リンガ泊地を出港⇒ブルネイへ

-

10月20日

ブルネイに到着

-

10月22日

レイテ沖海戦参加のため、ブルネイを出撃

-

10月23日

パラワン水道において、第二艦隊旗艦『愛宕』の撃沈により旗艦を大和に変更

-

10月24日

シブヤン海海戦⇒僚艦『武蔵』撃沈

-

10月25日

サマール沖海戦⇒米護衛空母撃沈させる

-

10月26日

米艦載機による攻撃を受ける

-

10月28日

ブルネイに帰投

-

11月8日

ブルネイ出撃⇒レイテ輸送作戦支援

-

11月11日

ブルネイに帰投

-

11月15日

第1戦隊解隊⇒第2艦隊に編入

-

11月16日

ブルネイ出港(呉へ)⇒航行中米艦載機による攻撃を受け、交戦

-

11月23日

柱島着

-

11月24日

呉に到着⇒修理のため呉海軍工廠に入渠

-

11月25日

5代目艦長有賀幸作着任

-

12月23日

第2艦隊司令長官伊藤整一中将着任

1945年

1月1日

第2艦隊第1戦隊に編入

-

1月3日

出渠

-

2月10日

第2艦隊第1航空戦隊編入

-

3月19日

広島湾にて米艦載機と交戦

-

4月5日

沖縄特攻作戦命令を受け、徳山沖で燃料4000t搭載

-

4月6日

軽巡洋艦『矢矧』、駆逐艦凉月、冬月ほか6隻とともに徳山沖を出撃⇒沖縄へ

-

4月7日

米艦載機386機の攻撃を受け、死闘2時間の末、午後2時23分九州坊ノ岬沖に沈没

-

8月15日

終戦

-

8月31日

戦艦大和除籍

※この行動年表は、行動中の出来事も記載している。


性能諸元
-Performance-
 大和は日本の技術の粋を集めて建造された艦であるが、設計当初は大艦巨砲主義時代であったので、少しばかり性能に古めかしい部分が残っている。初期装備ではレーダーは搭載されておらず、対空火器があまり配置されていない。無論これらの部分は改装を受け、改善されている。しかし、艦体にある無数の窓など根本的なところは改良不可能なため、いささか旧型と感じてしまう部分が残ってしまっている。

主兵装

新造時

3連装45口径46cm砲              3基
3連装60口径15.5cm砲           4基
40口径12.7cm連装高角砲     6基
25mm3連装機銃                     8基
13mm連装機銃                       2基

最終時

3連装45口径46cm砲      3基
3連装60口径15.5cm砲          2基
40口径12.7cm連装高角砲  12基
25mm3連装機銃                  52基
25mm単装機銃                      6門
13mm連装機銃                      2基

性能諸元

性能

基準排水量 65,000トン(完成時)
満載排水量 72,808トン(完成時)
全長    263.0m
全幅     38.9m
平均吃水  10.58m
最大速度   27.68ノット
乗員   約3,300名
軸馬力  153,553馬力(軸数4)
建造費 1億3780万2000円(当時)

装甲

装甲 舷側   410mm
甲板       200mm
主砲防盾    600mm

 建造当初は乗員数は約2700名であったが、対空火器の増加に伴い乗員数も増え、海上特攻作戦時には3,333名(うち1名無断乗艦)に膨れ上がった。

呉で艤装中の大和
▲呉で艤装中の大和

 大和は当時の金額では1億3780万円、現在の金額で約2600億円もの莫大な費用をもって建造された。これは当時の国家予算の3%に当たる金額であった。帝国海軍はその大和型戦艦を2隻保有していた。

 

同型艦-Yamato Class-
 同型艦とは、同じ図面で作られた艦のことで、普通は性能も同じである。ただし、作られた場所や運用上の都合などで多少異なる場合がある。

 戦艦はその運用の都合上から、必ずペアとなる同型艦が必要であった。大和もその例外ではなく、大和型戦艦は2艦いた。1番艦の大和、そして2番艦の武蔵である。武蔵も大和とほぼ同じ性能で、兵装が少し異なるだけだ。

戦艦武蔵
▲戦艦武蔵

 武蔵は1938年3月29日に三菱重工業長崎造船所にて起工し、1942年8月5日に呉で竣工、横須賀鎮守府籍に編入されたのち、1943年2月12日に大和から連合艦隊の旗艦を譲り受ける。 そして1944年10月24日のシブヤン海海戦において、米軍機の魚雷19本、爆弾17発(資料によっては魚雷14本、爆弾16発という記述もある)を受け、壮絶な最期を遂げるのであった。

戦艦武蔵
主兵装

新造時

3連装45口径46cm砲              3基
3連装60口径15.5cm砲           4基
40口径12.7cm連装高角砲     6基
25mm3連装機銃                   12基
13mm連装機銃                       2基

最終時

3連装45口径46cm砲      3基
3連装60口径15.5cm砲          2基
40口径12.7cm連装高角砲    6基
25mm3連装機銃                  35基
25mm単装機銃                    25門
13mm連装機銃                      2基

※対空噴進砲(ロケットミサイル)を装備していたという説があるが、ここでは省略した。

 武蔵を建造する際、機密保持の為に船台を大量の棕櫚縄を使い、覆ったという。そのため一時棕櫚縄の値段が高騰した。また海外の大使館がたくさんあった長崎では、機密保持の苦労が大変であったという。


 大和型戦艦は2隻であるが、大和級となるともう1隻増える。大和型空母『信濃』である。信濃はミッドウェー海戦で主力空母4隻を一挙に失ったことから、建造中であった大和型戦艦の3番艦を急遽空母に改造した艦である。信濃の艦体は大和型戦艦の艦体をそのまま流用した重装甲であり、そのために排水量の割には搭載機数は少ない。だが信濃は、この装甲防御で敵の攻撃に耐えながら海戦海域の最前線へ進出し、他の空母の搭載機の再武装基地にするという運用を目的とされていたのではないか、と一般的には言われている。

空母信濃
性能諸元

性能

基準排水量     62000t
全長   266m
全幅    38m
飛行甲板   256m
速力     27kt
機関  タービン4基4軸
出力     15万馬力
12.7連装高角砲     8基
25mm3連装機銃    37基
25mm単装機銃        40基
12cm28連装噴進砲  12基
艦載機:常用42機、予備5機

装甲

飛行甲板は800kg爆弾に耐えうる。


 信濃は就役直後に横須賀から呉へ回航中、米潜水艦『アーチャーフィッシュ』による雷撃を受け、魚雷4発を被雷した。その時未だ艦内では工事が進められており、ケーブル類で防水ハッチが閉められず、就役後わずか10日の短い一生を終えた。世界の海軍史上最も短い艦暦であったという。海軍上層部や信濃艦長:阿部俊雄少将の判断ミスだという批判もあるが、信濃は竣工とは名ばかりの未完成艦で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2センチも隙間の空く防水ハッチなど、その突貫工事には目を覆うばかりであった。

空母信濃
▲信濃の写真は非常に少なく、残っているのはほぼこの写真だけといっていい。

 大和型自慢の防御力も生かせず、また1度も戦線に加わることのなかった、不運な艦である。


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